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第28回 視覚に操られる手の動き


マラソン選手は、給水所で走りながらテーブルの上に置いてあるボトルやカップを実にうまく掴んでいきます。不確定要因や外乱のある環境で人がするような速さでこの動作を行うのは、最新のロボットであっても難しいことかもしれません。視覚や体性感覚を使って、いとも簡単にそれをやってのける脳は、どのような情報処理を行っているのでしょうか?

一般的に、視覚で得られた情報をもとにして外界の状況が把握され、その知識をもとに意思決定が行われ運動が生成される、と考えられがちです。しかしそのような複雑な情報処理は時間がかかるため、ダイナミックな動きの中では間に合わなくなってしまいます。時間のかかる意思決定の情報処理の代わりに素早く働いてくれるのは「反射」です。肢を外部から急に伸展されると、「伸張反射」として知られる固有受容器からの信号を入力とする運動生成が、「意思決定の情報処理」を介さずに素早く働きます。反射にも様々なレベルがあり、脊髄レベルで運動系に働くもの、大脳感覚運動野を介して働くもの、など階層的に組み立てられています。高い階層の情報処理になるほど、意図、環境文脈などによってモジュレーションが起こることも知られています。「反射」と聞くと、ステレオタイプであまり知的な感じがしないかもしれませんが、実はけっこう賢く対応できるんです。

話を視覚―運動系のメカニズムに戻しましょう。今から数十年前に、ある研究者グループは、視野に広がる視覚運動に引きずられるすばやい(反射的な)手の応答は、(A)指標周辺の視覚運動により脳に表現された指標表象が移動する錯覚が生じ、それに対して手の動きを修正する情報処理によって生ずる、という仮説を出しました。私たちもほぼ同時期に、運動中の手が視覚的な動きの方向に引きずられてしまう現象を発見していましたが、上記仮説とは異なり、(B)視覚的な動きから身体の動きを錯覚し、身体とともに動いてしまう腕の動きを修正する情報処理によって生ずる、という仮説を提案しました。その論争をきっかけに、様々な実験が行われ視覚―運動情報処理の計算メカニズムが明らかになってきました。視覚運動解析というと、1つの情報処理ストリームを想定しがちですが、実は腕応答、眼球応答、知覚に関わる脳情報処理は違っていることがわかってきました。さらに最近、仮説(A)の考え方に基づいた情報処理は遅くて腕応答の初期成分を説明できないことや、視覚運動による腕応答は姿勢が不安定な文脈で増加することなど、仮説(B)を支持する証拠が示されています。

感覚から運動生成までの情報処理ループは多重に構成されており、そのループを丁寧に解明していくことによって、生態系の優れた階層的情報処理機能を理解し、さらには疾患の理解や診断、そして人間のようにフレキシブルに動けるロボット脳の開発につなげていくことが期待されます。むろん、ロボットが給水所でコップをとる必要はないかもしれませんが・・・。

文責: 五味 裕章
所属: NTTコミュニケーション科学基礎研究所
所属学会: 一般社団法人日本神経回路学会、日本神経科学学会、公益社団法人計測自動制御学会